それに対して、闇帝を拘束する己の生み出した「鏡」のなんと小さく、 頼りないことか。
イサクが体を取り戻すまでもってくれるかどうかも、心もとない。
焦りと悔しさが闇帝にも伝わっているようだ。
あざ笑うかのように、わざわざと徐々に顔を近づけ、
彼女の目を覗き込んでくるその顔は、やはり、どうみても、
「イサク」ではない。
怒りよりも、不意に深い悲しみが、胸の中を圧した。
救えないのか。
救う理由も、救わねばならぬ義務も思い当たらぬのだが、それでも、
ただ、再びあの小憎らしくも馬鹿馬鹿しい軽口を聞けぬのかと思うと、
声をあげて泣き出したいような衝動にさえ駆られた。
奥歯を噛み締めて、正面から、イサクの姿をした闇帝を睨む。
己の体から出たこの相手と対峙するのは、まさに、14年ぶりだ。
幼い頃はただ恐ろしかっただけであったが、今は違う。
己でも意外なほどに。
憎いと感じている。
異様に熱い、イサクの左手を、自分の右手で握りながら。
イサクの頬を自らの左手で覆うと、闇帝であるその瞳に、
自ら瞳を近づけた。)

イサク。
お主は、また、私をたばかるのか?
まこと、嘘しかつけぬ男よの。
私を笑わせるのではなかったのかや?
お主は………
(言いながら、その場で、目を剥いた。
闇帝の右手が動き、涼の首に触れる。
そのまま、その唇が、彼女の唇を深くふさいだ………!)
イサク:(舌で果実を転がして遊ぶような、長いくちづけ。
胸が飢えていたその感触に騒ぎ、いちいち体が熱くなる。
最初は呆然としていた涼に、やがて強く押し返され、
しぶしぶ、体を少し離した。
それでも額が触れるような位置で。
事態がまだ飲み込めず、目を見開いている涼の瞳に、
ほのかに、微笑みを投げ込む)
……しまった。
もう少し我慢していれば、あなたの口から、恋懺悔が聞けたのに。
涼:(……イサクである!
このような野卑た口を、あの闇帝がきくとは思えぬ。
イサクである。間違いない。
だが、どうしてこの男を取り戻せたのか、その理由がわからぬ。
己にその手ごたえはまったくなかったのに、
どうして、あの闇帝を退けることができたのだ?
あまりに愕然と、
疑問符に脳天を殴られたような顔を彼女がしていたせいだろう、
イサクがとうとう、おかしそうに笑いだしたが、
それでも納得ができず、何度も前髪を揺らし、彼を見直した)
イサク:
あなたは……
(まだ、気づいていないのだ。己の体の変化に。
そう、言いかけて、ふと、口をつぐんだ。
それを言ってしまえば、二度と、涼は戻らぬ。
求めていた力が、いつのまにか自分の体に宿っている……
いや、それは求めていた以上のものかもしれない。
その証拠に、あの「鏡」が生じた時点で、闇帝はほぼ、
悲鳴をあげて彼の奥へと退散していたのだ。
あんなに小さな「鏡」であったのに、
体の裏まで照らし出されるような心地がした。
……そこまで考えて、目を伏せた。
闇帝は引き下がり際、余計なものまで、彼に見せた。
それは、彼が涼に告げずにはいられぬとわかっての
おそらくは嫌がらせだ。
しばしのち、瞼を再びあげると、涼の肩を両手でつかみ、
黙って彼女を立ち上がらせた。
そして、自分も立ち上がると、涼をそのまま閣下の方へ向き合わせ、差し出した……!)

……東の辺境にしては面白い余興だったが……
どうにも、私の悪い癖が、もう出てしまったようだ。
残念だが、なにもかも、すっかり面倒になってきてしまったよ。
良い迎えも来ていることだ。
このままあなたの居るべき場所へ、
お帰りになられれば良かろう……!
(言いながら、真正面に閣下を見つめた)
閣下:
(暫く無言でイサクを見詰めていたが、
不意に目を伏せ、息を吐くように笑った。)
余興、とな。
お前達はもう少し素直にものを言う事を覚えるがいいよ。

(言いながら、涼さんを片手に抱き寄せた。
安否を確かめるように両手で頬を包んで、
まだ戸惑いと驚きの抜けない顔を覗き込む。
目が合うと微笑んだ。
するりと肩から腕へ手を滑らせ、傷も汚れも無かったように、その身なりを調える。
髪を撫でると、機嫌良さげに離れた)
……このまま去っては、
何か施しを受けたようでいかんな。
(ゆったり歩き、視線を遣ってヨハネを立ち上がらせる。
同じ様に立たせた鳴蛇と右手を繋がせ、くしゃりと頭を撫でると、踵を返した。
薄く目を開いた二人を背に、帰りざまに少女の頬に触れる)
手のかかる子らだ。
私が手を出せぬ程にな。
(涼しい顔で冗談めかして呟き、
再度涼さんを抱き取った。)
さぁ、役者は整った。
兄を救いに行くぞ?
(二人をゆっくりと白い霧が包み始める。
活発だった筈の『深奥』は、夜明け前の深山のように静かに、
ただ白い闇として皆を取り巻くだけになっている………!)

蔡:(なんの声もあげさせてもらえなかった。
ただ、涼が消えた場所を見つめるしかない。
………終わったのだという気がしない。
心残りが、胸の奥にこびりついて離れない。
ゆっくりと瞼を半ば伏せ、己の内側を見るように、視線をさまよわせる。
………ふと、イサクの気配が気になって、顔を上げ、
目を見開いた)

蔡:(笑っている……!
………その表情を見て、毒気を抜かれた。
腕を腰にあて、ようやく、言葉が出た)

………マダムにはなんて申し開きをするつもり?
きっと、お怒りになるよ………言っとくけど、僕は口ぞえしないからね!

イサク:(微笑んだ。古い友人の声が、今は耳に心地よい。)
ありていに、逃げられたと言うがよいだろうさ。
実際、嘘はついていない。
なにより、あの方は、私が戻れば満足だ。
それ以外のことは忘れていただこう。
蔡:(一瞬、呆れたような顔をしたが。
そのまま、片頬笑んだ。
白い霧の中を、ヨハネに向かって大きく手を振り、
まだ、ぼうっとした様子のその体に飛びつく)
………ヨハネ!
起きなよッ。
ほら、お前が船に食われてる間に、ぜんぶ片付いちゃったよ!

イサク:(その微笑が、静かに、物思いにかわる。
何かを、すがしみるように。
しかし、それも、蔡にのしかかれたヨハネの悲鳴を聞くと、
現実の苦笑に変わった。
まだ、長いままの髪を揺らし、弟と友人たちの横を通り、
かすかな潮風の香りがする霧の晴れる方へと歩き出す……)

蔡:(まるで何事もなかったように脇を通り過ぎてゆく友人に、叫んだ)
イサク!
僕は日本へ行くよ。
それも、近いうちに。
でも、お前には教えない!
絶対、黙って一人で行くからね!
イサク:(振り向かず、肩をわずかにひきあげた。
……笑った。)
もう、私に、言ってしまっているではないか。
蔡;(ぐッという顔をして、イサクの背中を見る。
が、その仕返しをヨハネでするように、彼の肩にぶら下がって、
そのまま、とんでもなく無邪気に、笑った。
アークはボロボロだ。機械魔たちのことも気になる。
それだけ考えても、仕事は、山のようにある。
だが………そのすべてが終わったら)

(彼らを包む霧は、もはや、ほとんど、消えている。
その後の彼らの足取りを知るものはいない………!)



















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